昭和四十一年五月八日 朝特別奉修委員への御理解


 先日菊栄会の方達が何時も御大祭の後慰労の意味を込めて温泉に誘うて下さる。もう大体もう御大祭のあと二十日菊栄会の日を恒例になっています。こん時にこの度あの別府に泊まりました。一泊どまりで、あちらで写真を撮っておりました。なかなかカラー写真でなかなかいい写真がいくらも出来ております。それを私見せて貰いましたら、ずらり菊栄会のメンバーが私を中心にして写っている写真を見せて頂いていたら何かしら感激するのですね。
 これが椛目の次の時代の、云うなら総代コースを行って居る人達だと云う感じですね。正義さんが会長ですから会長の正義さんを先頭に文男さん、東さん、久保山の茂さん、大和さんそれに杉山さん、古賀さん等が続いて居られますけれども、どの顔ぶれを見ましても素晴らしいなあ、この人達がそれぞれの個性をそれぞれの信心を以て椛目のお広前の上にそれをいよいよ現せれることになれたら、その時こそこの人達それこそ椛目の全盛の時代では無かろうかと思う様なメンバーでございますね。
 こうして日曜度びんに皆さんの奉修委員の方達に依って御造営のよりよい御成就の為に特別の奉修祈念があっておられる。いわば椛目の御婦人達の信心の中ではその、いわば椛目の菊栄会のそれにも匹敵する様なメンバーが揃ってこの主力が御祈念をなさる。勢信心をなさる訳でございますけれど、信心をさして頂いて居ると云う事は菊栄会の連中の信心が今どうこうと云う事では無いけれど素晴らしい一つのそれぞれの個性又は信心生活と云うものをです、本当に発揮できているとは思われません。今完璧と云ったことは思われません。そう云うよいものを持っている様に皆さんの信心の上に於ても一つの手本になる様なものを持って居られます。
 信心の例えば中心となるものは何かそれがと云うことになって参ります。わけです、椛目で信心が一生懸命出来ておられる、椛目の信心の代表だ、いわば婦人の信心の、云うなら手本の様な方達ばかりだと、例えば椛目ではと云う事になるでしょうけれど、果して婦人達の信心と云うのが何事にも信心になれよと仰る信心がです、どの様な意味合に於いてもそれでよいかと云う事を一つ思うてみなければいけないと思うね。
 昨日から今朝にかけて善導寺の原さんがお届けしておられます様に子供が母ちゃんあんた兄さんだけはよかばってん、父ちゃんにはとても冷淡よと云うわけ。思うてみれば成程そうじゃ、結局いわゆる家内としての用の資格を無くしておる。しかも椛目の代表選手がです、例えば家庭に於いて主人に対してです、良い家内でないと云う事はもうそれは信心ではないじゃないか。いくら拝む事だけが一生懸命いくら椛目に参ることば千度参りしたところでつまらんと云う事にならしませんでしょうか。
 今日は母の日だそうですね。子供達から内の母親は只年に一辺だけ只子供達からプレゼントを受ける。お母さん有難うとか云われるだけじゃなくて真から真心から日々子供達から感謝される。果して良い母親であるだろうか、一家の主婦としてほんとに信心を持っている者の値打と云うものがです、主人の為には良い家内として子供達の為には良い母親として信心が為されておるだろうか。それが出来ての信心なのです。 
 皆さんが例えば今後の椛目の婦人の方達の一つの手本ともなって頂かねばならん。云うならば菊栄会の方達がです、それこそまっしぐらに椛目の次の時代の総代コースを進んでおられる、それにも匹敵した様なコースを皆さんが辿って頂かねばならんのです。
 それには例えば拝むことに修行に熱心であると同時にそうした家庭を中心にした処の主婦としての座、母として妻としての信心が果して為されているだろうかと云う様なことをです、本気で思うてみてそれが為されて信心じゃ、それが為されて始めて私は良い信心だと云う事になるのではないかと思うんですね。まあ奉修委員の方達の御祈念に今日は丁度母の日に当たっております。それにちなんでね、その様なことを御祈念中に思うたんですけれど、皆さんどうでしょうか。原さんじゃないですけれど、母ちゃん、兄さんにはまあ良い母親なんだけどお父さんにしては不親切じゃ。言われてみればほんとに成程と又次の良い家内としてのおかげ頂かにゃならん事に原さんが取り組んでおられる様に銘々がそこん処に自分の胸に手を置いてみなければならないとそう思うですね。どうぞ。